2015/08/01
前の戦争ではたくさんの方が亡くなりました。その事実は決して風化させてはならないものだと思います。戸籍の中に見る戦争の爪痕について考えてみました。
戸籍には、ある人がいつどこで亡くなったのかが記されています。
それは例えば、こんなふうです。
昭和○年○月○日 本籍ニ於テ死亡
しかし、「戦死」の場合には、この書かれ方が少し違うのです。
例えば、「我が家の家系図」の中にこんな記述があります。
昭和○年○月○日
午後5時40分 満州国黒龍江省○○県○○○○ニ於テ戦死
歩兵第○○連隊長○○○○報告(○の中には、部隊名と部隊長の名前が入る)
昭和20年○月○日
午後1時9分 ビルマ方面ニ於テ戦死
○○連隊区司令官○○○○報告(○の中には、部隊名と部隊長の名前が入る)
昭和20年○月○日受付
満州とは現在の中国東北部のことであり、ビルマとは現在のミャンマーのことです。
この、「ビルマ方面」で戦死したご先祖様には、太平洋戦争が始まる直前に結婚した奥様がいらっしゃいました。
しかし結婚してから3年ちょっとで、最愛の旦那さんは故郷を遠く離れた地で戦死なさいました。
最近、インターネットである記事を読みましたが、そこに兵士が出征していく様子が描かれていました。
近所の人は、笑顔で万歳の連呼をしている。
しかし奥さんや家族は泣いているそうなんです。
本人はどんな思いで戦地に旅立ち、そして、それを見送る家族は、どんな思いで愛する家族を見送ったのでしょうか?
よく映画などで、兵士が家族の白黒写真を見ているシーンがありますが、あれは事実だと思います。
ふとした折に、家族の写真を見る。
嫁さんは元気にやっているかなぁ?
子供はどれくらい大きくなったかなぁ?
などと、写真の奥をのぞき込んでいるんだろうと思います。
正直、「うちに帰りたいなぁ」が本音なんだろうと思います。
日中戦争~太平洋戦争にかけての、軍人、軍属、民間人合計の戦没者は約310万人とされています。
ここに記載させていただいた「戦死者の数」は「2名」ですから、その統計上の数字の大きさから言えば、「端数」「誤差」で収まる範囲です。
しかし、その「たったの2名」にも、泣いてくれる家族がいたのです。
昭和20年8月15日。
長く苦しかった戦争は終わりを告げました。
この後日本は目覚ましい発展を遂げ、終戦からたった19年後の昭和39年には、東京オリンピックが開かれます。
オリンピックと時期を同じくして、首都高速開業、東海道新幹線開業、営団地下鉄日比谷線全線開業、などの社会資本の整備も着々と進んでいきました。
焼野原だった東京が、たったの19年でオリンピックを開催するまでに至ったのです。
これほど短期間に、これほどの繁栄を迎えた歴史が他にあるのでしょうか?
それらはすべて諸先輩方の頑張りのたまものではありますが、ただ1つ忘れてはいけないことは、その栄光のほんの少し前には、たくさんの貴い命が失われ、たくさんの人々が涙したということです。
そして、その涙の延長線上に今の社会があることは、決して忘れてはならない事実だと思います。
本来は、新幹線に乗ってほしかった。
本来は、テレビでオリンピック中継を見てほしかった。
それが叶わなかった人たちに、せめて手を合わせて「私たちは元気でやってますよ」と、感謝の念を伝えてみてはいかがでしょうか?
「私たちは元気でやっている」ということこそが、散っていった方々が最も望んでいたことなのではないでしょうか。
そしてまた、そうして彼方の地で散っていったご先祖様や涙を流したご先祖様がいたことを、歴史の1ページの中に埋もれさせず、後世に語り継いであげることも、今の時代に生きる我々の責務なのかもしれません。
(画像と本文は関係ありません)
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